世代交代か?感性の衰えか?2018/01/14 19:27

写真は、昨年末の喜多方の町並みです。


お正月も終わって、はや2週間余も経ってしまいました。

相撲とグローバル化について考えたことの続きで、今回も年末年始に考えたことの、二つ目の続きです。

エルビスさんが、昨年末は久しぶりに紅白歌合戦を見たとのことで、幸いなことに、紅白歌合戦の人気凋落に、少し歯止めがかかりました。

こちらは、紅白を一年を一日で過ごす良い時間と位置づけておりますので、この番組が消滅してしまうことが一番心配です。

この番組は、一年の歌謡界の今の状況を知るために貴重な時間でありますし、世代間の考え方の違いや自分の感性の冴え及び、衰えを感じたりする貴重な場であります。

毎年、紅白歌合戦の入場券を手に入れようとして、今年で、もう10回余も落選しました。
今では、ばからしいので、当選しようと、はがきを毎回、1万円も買うことはしませんが、それでも宝くじの購入と一緒で、いくばくかのお金を、往復はがきの購入に使いますので、その労力と出費はかなりなものです。

さて、この歌合戦は、広くまんべんなく、各年齢層にふさわしい出場者を決めるのですから、NHK関係者もかなり気を遣っているでしょう。

その割には、視聴率で人気を判断されてしまって、少しでも視聴率が下がると、紅白の時代は終わったかのように、他民放局の自社の番組を見てもらおうとする陰謀と足の引っ張り合いで、視聴者である、自分たちもいつの間にか、紅白歌合戦の時代が終わった錯覚に落とされるのは、民放の仕掛けた二重の陥穽にはまったものと同じです。

さて視聴率が下がるということは、
① 他に楽しみができた。
② グローバル化してしまった、
という、二つの流れがあります。

視聴率が、60%も70%も在った時代は、楽しみはテレビしかなかった時代で、いまは、コンピューターも発達したり、ビデオもあって
後から楽しむこともできるし、同じテレビでもその時間に、お金を払えば、自宅でも映画を見ることができる時代で、情報を取捨選択できるので、昔の時代とは、全くエンターテインメントの環境は激変しています。
このため、他の楽しみができたために視聴率は凋落しました。

次にグローバル化が進んだことです。

毎年、年末年始に放映される、スターウォーズに代表されますが、全く簡単なストーリーととアクションだけを使って、アメリカが提供する映画も、低俗というより、英語を話せない、生活環境を異にする人たちにも共通で楽しむことができる、映画制作になってしまったことです。

つまり大衆受けするように操作していますので、意味を追求したり、メロディを楽しんだり、歌詞を鑑賞することは念頭に置いていないで、単に楽しければ良いという番組制作が、よりつまらなくさせているのです。

これは、歌の世界でも同じで、歌詞で説明するには、お互いの理解能力と、同じ環境に根ざしていないと歌詞は伝わらないので、
ひたすら、単純な歌詞と、詩というより、言葉がない人同士が意思疎通をするために、アクションと簡単な言語で伝えることになります。

つまり、歌の持っている本来の詩は必要なく、リズムと和声の変化、歌手および歌手を取り巻くダンサーのオーバーアクションで、現在の歌謡界が成り立っています。

歌で心情を込めても、生活環境が広がった為に、伝わる人は限られてきてしまい、ひたすら大衆を追いかけていくので、アメリカの昨今の映画に代表される様に、ただ楽しめれば良い方向へを変換しています。

この動きは、私が習っているフラメンコの世界でもいえることで、
今は、歌とメロディックな方向で、心情を訴えるより、より、リズミックに、和声の変化で観客を盛り上げる方へと変わってきて、どの曲を弾いても、踊っても最後は、ブレリアの激しいリズムへと収束しています。

さて、グローバル化と、楽しみが増えただけでは、説明仕切れないことがありますが、それは、人を恋する気持ちの表現に、行動と言葉が絶対的に必要でが、年を取ると行動力が落ちますが、言語も世代交代をすることです。
年を取った人は、行動力が落ち、古い言語のままでいますので、当然、
行動力(アクション)と、いつの時代の言語に焦点を合わせるかで、視聴率の高低が決定されてしまいます。

日本経済新聞に、言語45年説が記載されていました。
これは、今使っている言葉は45年後には、確実に消滅する性(さが)を負っていることです。

紅白の大トリを務めた、石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」ですが、その歌詞は下記です。

上野発の夜行列車おりたときから
青森駅は雪の中、
北へ帰る人の群れは、誰も無口で
海鳴りだけを聞いている
私もひとり連絡線に乗り
こごえそうな鴎見つめ泣いていました
ああ津軽海峡冬景色

一方、若手の中では、比較的歌詞に意味のあった、竹原ピストルの
「よー そこの若いの」の歌詞は下記です。

とにかく忘れてしましがちだけれど
とかく 錯覚してしまいがちなだけど
たとえば桜やひまわりやらが、
とくべつあからさまなだけで
季節を報せない花なんてないのさ

これを子供たちに聞いてみたら、石川さゆりの歌詞の内容ですが、
上野発の夜行列車も見たことがないし、乗ったこともない、
青森駅から青函連絡船に移動する人の群れも見たことがない、
冬の凍てつく海の海鳴りを聞いたことがない、
青函連絡船も見たことがない
津軽海峡も冬景色も見たことがない。
この無い、無いづくしの中で、
ましてや、何を泣いているのかわからないの拍車がかかって、
グローバル化というのは、目的語がないので、何に対して泣いているのか、わからないとなってしまって。
これが、心象を歌った心に染みいる曲なのかとなってしまっています。

今回の紅白で、私が聞いても群を抜いて秀逸だった、竹原ピストルさんの歌の方が、
単純な言葉と、誰にもわかる言葉、
人によっては、誤解を生む形容詞を一つも使わないで、
表現していて、日本語がわからない多言語の人でも簡単に表現できる現代の作詞であるとわかります。

まさに45年の歳月が、言語の単純化の流れの中で、過ぎていこうとしている時間の隔たりを感じています。

どちらが情緒的で、風景も、自分の心情も暗喩の中で表現している世界は、一目瞭然です。

チラリズムにエロスを感じ興奮する古い世代と、直裁的な若い世代の違いと言えば、簡単ですが、同じ言葉を使っても、感受性が共有できないというか、
「かなしい」という言葉を使っても、それが、哀しいのか 悲しい 愛しいのか言葉そのものに、意味があったものが、伝わらないのです。

まさに、歌は世につれ、世は歌に連れの世界です。

毎年、古い曲を聴いて過ぎ去った自分と、来る年に向かって、一年間活躍した若い人のエネルギーと感性を、紅白歌合戦という数時間の中で体験できて、
時代に取り残された、古く死んでいく自分を再確認し、若手のエネルギーで、新しい自分を、次の年に向けて 切り開こうとする気持ちにさせてくれるいい番組です。

今年の暮れは、なんとしても、抽選に選ばれるぞ!!