揺らぎで知る安らぎ ― 2025/11/06 19:30
先日のブログでは、興味のない人には、全くつまらない音楽、エレクトーンの世界の説明でしたので、広く浅いテーマを扱っている、このブログでは、訪問された人に無駄な時間を使っていただいたように感じます。
さて、前回取り上げたエレクトーン音楽を含む、電子楽器音楽は、現在では、コマーシャルや、パソコン、スマホゲームや、歌手の伴奏などで広く使われております。
エレクトーンも、生の楽器に近づいて来ましたが、直接、手で弦を触れるエレキギターでも、耳が聞き慣れて、肥えてきますと、どうしても、無味乾燥な音に聞こえてきてしまいます。
単発の短い時間で放映されるコマーシャル音楽や、ゲーム音楽のように販売する物や、ゲームの目的のBGMつまり、補助音楽としては
演奏されていても違和感がないのですが、
これが、演奏そのもの、ずっとその音楽演奏、鑑賞だけを追求してくると、いつの間にか、機械音が色彩をなくしてモノトーンになって来て、
自分も機械の一部になった感じがいたします。
生の楽器と何が違うのか?
ピアノは、直接人間が弦を叩いていないのですが、どうして、ずっと長く音を聞いていることができるし、個性が出てくるのか
不思議な気持ちになります。
先日のエレクトーンコンクールで、入れ替わり20人以上の演奏を聴いた後で、このエレクトーンと生楽器との差、違和感は何かをずっと考えてきました。
そして、わかった事は、自然界にある音は、同じように聞こえても
一音一音が違っていると言うことがわかったのです。
風の音、波の音、枯葉の舞い散る音、木々のこすれる音、
演奏において、生楽器の場合、同じ楽器を使っても、出てくる音が
演奏者に拠って、息づかい、タッチが微妙に違っていますので、それぞれ同じメロディやリズムを奏でても出現する音が違うことがわかったのです。
本日掲載の写真は、私の住む近くの里山の秋の様子(今ではこの写真より紅葉が進んでいますが)ですが、
一枚一枚の樹木の葉が、同じ形状や色づきでなくて、一枚一枚微妙にちがっており、しかも、その木々に降り注ぐ太陽の光も、一枚一枚に光量が違っています。
さらに、林を吹き抜ける風も、一枚一枚、当たる風量も、葉の茂る方向や密度で違っていて紅葉が進んだ葉は、次は落ち葉となるだろうとして、元気な葉より動きが大きいのです。
秋が深まり、紅葉という現象をとっても実に複雑で自然界は成り立っているのです。
これは、大学で習った「1/F 揺らぎ」では、ないかと、思い出しました。
「(1/f) ゆらぎ」とは、周波数(f)が低いほどそのパワー(振幅)が大きくなる、自然界に多く見られる心地よいリズム
人の心拍や脳波、小川のせせらぎ、炎のゆらめきなど、多くの自然現象や生体リズムに共通する性質で、リラックス効果があるとされています。
これらの特徴をネットでは、下記の4つの事象で説明をしておりました。
規則性と不規則性のバランス
心地よさの源
生体リズムとの関連
自然現象に多く見られる
人工的に作られた音は、この自然界における揺らぎを創造することができないのです。
現代音楽、今の時代の歌謡曲などがつまらないことも、つまらなくなってきたことも、揺らぎの少ない、機械が規則的に発するリズムと、感情の起伏の少ない言葉、機械的な音の集合としての音楽に成り下がってきたことによると思います。
人間くささ、その人の人生、喜怒哀楽、人を恋する気持ちが、安易に機械音に頼ることで、無くなってきてしまったのでしょう。
世の中が、コンピュータに支配され、二進法の世界で論じられようとしてきているので、論理だけが重要視され、
言葉で表すことのできない、感情や自然現象や、生体リズムとかなり乖離が進んでいる為に、落ち着かない、不安定で安らぎのない世界が生まれていると感じました。
これが、スマホの普及でかなりな処まで、機械化されて、いびつになっている感じがします。
肌感覚、生の音、自然の音に、もっと触れる事が大切だと感じております。
以前は、「書を捨てて街に出よう」と。寺山修氏が唱えていた時期がありますが、
いまは、「スマホを捨てて、自然にふれあおう」と言う言葉が、次世代のキャッチフレーズになる頃だと感じております。
いつの間にか、スマホやコンピューターにはまると、人間も感情のない、ロボット化してくると感じます。
現在放映中の朝ドラでは、小泉八雲を取り上げておりますが、
日本の古き時代の美学と、伝承としてのお化け(怪談)を、
借りて、風土、自然の中に生きている文化や精神性を形にして行く過程を取り上げようとしている事は、二進法の世界、論理だけでない、人間の揺らぎを、危機感を持ってとらえているのかも知れません。
さて、前回取り上げたエレクトーン音楽を含む、電子楽器音楽は、現在では、コマーシャルや、パソコン、スマホゲームや、歌手の伴奏などで広く使われております。
エレクトーンも、生の楽器に近づいて来ましたが、直接、手で弦を触れるエレキギターでも、耳が聞き慣れて、肥えてきますと、どうしても、無味乾燥な音に聞こえてきてしまいます。
単発の短い時間で放映されるコマーシャル音楽や、ゲーム音楽のように販売する物や、ゲームの目的のBGMつまり、補助音楽としては
演奏されていても違和感がないのですが、
これが、演奏そのもの、ずっとその音楽演奏、鑑賞だけを追求してくると、いつの間にか、機械音が色彩をなくしてモノトーンになって来て、
自分も機械の一部になった感じがいたします。
生の楽器と何が違うのか?
ピアノは、直接人間が弦を叩いていないのですが、どうして、ずっと長く音を聞いていることができるし、個性が出てくるのか
不思議な気持ちになります。
先日のエレクトーンコンクールで、入れ替わり20人以上の演奏を聴いた後で、このエレクトーンと生楽器との差、違和感は何かをずっと考えてきました。
そして、わかった事は、自然界にある音は、同じように聞こえても
一音一音が違っていると言うことがわかったのです。
風の音、波の音、枯葉の舞い散る音、木々のこすれる音、
演奏において、生楽器の場合、同じ楽器を使っても、出てくる音が
演奏者に拠って、息づかい、タッチが微妙に違っていますので、それぞれ同じメロディやリズムを奏でても出現する音が違うことがわかったのです。
本日掲載の写真は、私の住む近くの里山の秋の様子(今ではこの写真より紅葉が進んでいますが)ですが、
一枚一枚の樹木の葉が、同じ形状や色づきでなくて、一枚一枚微妙にちがっており、しかも、その木々に降り注ぐ太陽の光も、一枚一枚に光量が違っています。
さらに、林を吹き抜ける風も、一枚一枚、当たる風量も、葉の茂る方向や密度で違っていて紅葉が進んだ葉は、次は落ち葉となるだろうとして、元気な葉より動きが大きいのです。
秋が深まり、紅葉という現象をとっても実に複雑で自然界は成り立っているのです。
これは、大学で習った「1/F 揺らぎ」では、ないかと、思い出しました。
「(1/f) ゆらぎ」とは、周波数(f)が低いほどそのパワー(振幅)が大きくなる、自然界に多く見られる心地よいリズム
人の心拍や脳波、小川のせせらぎ、炎のゆらめきなど、多くの自然現象や生体リズムに共通する性質で、リラックス効果があるとされています。
これらの特徴をネットでは、下記の4つの事象で説明をしておりました。
規則性と不規則性のバランス
心地よさの源
生体リズムとの関連
自然現象に多く見られる
人工的に作られた音は、この自然界における揺らぎを創造することができないのです。
現代音楽、今の時代の歌謡曲などがつまらないことも、つまらなくなってきたことも、揺らぎの少ない、機械が規則的に発するリズムと、感情の起伏の少ない言葉、機械的な音の集合としての音楽に成り下がってきたことによると思います。
人間くささ、その人の人生、喜怒哀楽、人を恋する気持ちが、安易に機械音に頼ることで、無くなってきてしまったのでしょう。
世の中が、コンピュータに支配され、二進法の世界で論じられようとしてきているので、論理だけが重要視され、
言葉で表すことのできない、感情や自然現象や、生体リズムとかなり乖離が進んでいる為に、落ち着かない、不安定で安らぎのない世界が生まれていると感じました。
これが、スマホの普及でかなりな処まで、機械化されて、いびつになっている感じがします。
肌感覚、生の音、自然の音に、もっと触れる事が大切だと感じております。
以前は、「書を捨てて街に出よう」と。寺山修氏が唱えていた時期がありますが、
いまは、「スマホを捨てて、自然にふれあおう」と言う言葉が、次世代のキャッチフレーズになる頃だと感じております。
いつの間にか、スマホやコンピューターにはまると、人間も感情のない、ロボット化してくると感じます。
現在放映中の朝ドラでは、小泉八雲を取り上げておりますが、
日本の古き時代の美学と、伝承としてのお化け(怪談)を、
借りて、風土、自然の中に生きている文化や精神性を形にして行く過程を取り上げようとしている事は、二進法の世界、論理だけでない、人間の揺らぎを、危機感を持ってとらえているのかも知れません。
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