日本化あるいは国際化か? ― 2018/01/07 20:53

新年明けましておめでとうございます。
年末年始の休みもあっという間に終わってしましました。
写真は、昨年末に訪れた郡山市に在る、開成山大神宮、通称、みちのくのお伊勢さんです。
年末年始にかけて、いろいろなことを考えた休みでした。
一つは、日本人の所作についてです。
連日、相撲界の不祥事のことで、マスコミがあれこれ取り上げており、
それを拡大解釈して、貴乃花対相撲協会、モンゴルと日本の戦いの様な状況まで作り上げて、国土が狭小な日本ですが、さらに狭小な日本の心のあり方まで発展してしまいました。
相撲界も、海外の力士を土俵に上げたときから、国際化の流れには逆らえないのですが、その流れにうまく乗れない、現状を露呈してしまっています。
特に、貴乃花の行動に、古い日本人丸出しの感を持っております。
沈黙は美徳、くちびる滅びて歯寒しの、何も語らない所作を見る度に、
彼では、もう国際化の道をたどりつつある相撲界の改革はできないと判断されます。
日本人の説明べたは、今に始まったことではありませんが、
日本が世界に発信する能力が無いだけに、至る所で、多くの損失と誤解を生み出しております。
今回の事件後の協会および貴乃花の行動については、モンゴル人はもとより、海外の人たちには何が何だかわからないと思います。
また、一方的に、貴乃花が悪いだの、モンゴル勢が悪いだの、相撲界が隠蔽体質のままだとか、あれこれ言うのも、記事を売ろうとする意図が丸見えで哀れさすら覚える、いつものマスゴミの悪いところです。
日本人が特に求められていることは、世界に通用する英語教育でも、おもてなしの心でもありません。
日本人が、しっかりとした日本語と自己の存在感、信念を持って、世界に発信する能力、考えを説明できる能力がないと、これからの社会では生き残って行けないのではないでしょうか?
白鳳が、日本に帰化しない限り、親方になれないと発言したことについても、出稼ぎできた彼が、相撲をビジネスとして、一方的な見方をしていることに端を発しているとおもいます。
日本は、古くから異国や、さすらい人を招き入れて、あたらしい考えかを取り入れる文化がありますが、根底には日本を壊す思想には、多大な拒否反応を示します。
相撲は、現在、公益法人になってしまったので、宗教色、とりわけ、神事について公に言及できる立場でなくなったことも一因ですが、スポーツとしての相撲、金を稼ぐ場としての相撲以外に、
日本人が農耕民族として、五穀豊穣、安寧社会の祈念として、地の神様を鎮める目的での相撲があります。
相撲の発生は、古事記の国譲りやオオゲツヒメがスサノウに、稲の種、粟、小豆、麦、大豆の種を渡し、実りの神として渡したところから発しています。
その荒ぶる神(スサノウ)の体現者である相撲取りに、地方巡業をとおして、国土の豊穣を伝搬する神聖なスポーツでもあります。
稲作のない、モンゴル人が外来種のまま、親方になる発言は、農耕民族が、放牧民族に、単に騎馬民族が強いと言うだけで、その精神を売り渡す、売り渡せという言動でしかありません。
外国人を土俵に上げる、上げない以前に、和暦や、四季の、立春 啓蟄 春分、など24節気に基づいて、農作とともに行動してきた日本人の
有り様を根底から覆す発言であります。
同じ土俵に上げることは、恵比寿さまや布袋様など、異国のものを受け入れて、いいものを取り入れる日本の知恵、行動、所作であります。
外国からきたもの、よそ者を日本という土俵に上げて、異国の考え方、異国の戦い方、敗者への接し方、勝者の振る舞いをみて、お互いの心情を分かち合うことを行って居るのであって、農耕民族としての風土を理解したかとはと完全に違っています。
土俵に上げるのに、なぜ帰化しないとと言うことは、日本の風土、農耕、四季を理解しないものと同列です。
相撲界も荒れておりますが、すべての功罪の根源は、貴乃花に代表される、話さなくてもわかるだろうとする、同一民族の中で育った日本人のプレゼンテーション力のなさであります。
国際化に遅れない、他の国の日本を蹴落とす、永久犯罪国の様な他国の言動について、断固たる反論としての表現力を持っていくことが、これからの国際化の方向として必要です。
年末年始の休みもあっという間に終わってしましました。
写真は、昨年末に訪れた郡山市に在る、開成山大神宮、通称、みちのくのお伊勢さんです。
年末年始にかけて、いろいろなことを考えた休みでした。
一つは、日本人の所作についてです。
連日、相撲界の不祥事のことで、マスコミがあれこれ取り上げており、
それを拡大解釈して、貴乃花対相撲協会、モンゴルと日本の戦いの様な状況まで作り上げて、国土が狭小な日本ですが、さらに狭小な日本の心のあり方まで発展してしまいました。
相撲界も、海外の力士を土俵に上げたときから、国際化の流れには逆らえないのですが、その流れにうまく乗れない、現状を露呈してしまっています。
特に、貴乃花の行動に、古い日本人丸出しの感を持っております。
沈黙は美徳、くちびる滅びて歯寒しの、何も語らない所作を見る度に、
彼では、もう国際化の道をたどりつつある相撲界の改革はできないと判断されます。
日本人の説明べたは、今に始まったことではありませんが、
日本が世界に発信する能力が無いだけに、至る所で、多くの損失と誤解を生み出しております。
今回の事件後の協会および貴乃花の行動については、モンゴル人はもとより、海外の人たちには何が何だかわからないと思います。
また、一方的に、貴乃花が悪いだの、モンゴル勢が悪いだの、相撲界が隠蔽体質のままだとか、あれこれ言うのも、記事を売ろうとする意図が丸見えで哀れさすら覚える、いつものマスゴミの悪いところです。
日本人が特に求められていることは、世界に通用する英語教育でも、おもてなしの心でもありません。
日本人が、しっかりとした日本語と自己の存在感、信念を持って、世界に発信する能力、考えを説明できる能力がないと、これからの社会では生き残って行けないのではないでしょうか?
白鳳が、日本に帰化しない限り、親方になれないと発言したことについても、出稼ぎできた彼が、相撲をビジネスとして、一方的な見方をしていることに端を発しているとおもいます。
日本は、古くから異国や、さすらい人を招き入れて、あたらしい考えかを取り入れる文化がありますが、根底には日本を壊す思想には、多大な拒否反応を示します。
相撲は、現在、公益法人になってしまったので、宗教色、とりわけ、神事について公に言及できる立場でなくなったことも一因ですが、スポーツとしての相撲、金を稼ぐ場としての相撲以外に、
日本人が農耕民族として、五穀豊穣、安寧社会の祈念として、地の神様を鎮める目的での相撲があります。
相撲の発生は、古事記の国譲りやオオゲツヒメがスサノウに、稲の種、粟、小豆、麦、大豆の種を渡し、実りの神として渡したところから発しています。
その荒ぶる神(スサノウ)の体現者である相撲取りに、地方巡業をとおして、国土の豊穣を伝搬する神聖なスポーツでもあります。
稲作のない、モンゴル人が外来種のまま、親方になる発言は、農耕民族が、放牧民族に、単に騎馬民族が強いと言うだけで、その精神を売り渡す、売り渡せという言動でしかありません。
外国人を土俵に上げる、上げない以前に、和暦や、四季の、立春 啓蟄 春分、など24節気に基づいて、農作とともに行動してきた日本人の
有り様を根底から覆す発言であります。
同じ土俵に上げることは、恵比寿さまや布袋様など、異国のものを受け入れて、いいものを取り入れる日本の知恵、行動、所作であります。
外国からきたもの、よそ者を日本という土俵に上げて、異国の考え方、異国の戦い方、敗者への接し方、勝者の振る舞いをみて、お互いの心情を分かち合うことを行って居るのであって、農耕民族としての風土を理解したかとはと完全に違っています。
土俵に上げるのに、なぜ帰化しないとと言うことは、日本の風土、農耕、四季を理解しないものと同列です。
相撲界も荒れておりますが、すべての功罪の根源は、貴乃花に代表される、話さなくてもわかるだろうとする、同一民族の中で育った日本人のプレゼンテーション力のなさであります。
国際化に遅れない、他の国の日本を蹴落とす、永久犯罪国の様な他国の言動について、断固たる反論としての表現力を持っていくことが、これからの国際化の方向として必要です。
世代交代か?感性の衰えか? ― 2018/01/14 19:27

写真は、昨年末の喜多方の町並みです。
お正月も終わって、はや2週間余も経ってしまいました。
相撲とグローバル化について考えたことの続きで、今回も年末年始に考えたことの、二つ目の続きです。
エルビスさんが、昨年末は久しぶりに紅白歌合戦を見たとのことで、幸いなことに、紅白歌合戦の人気凋落に、少し歯止めがかかりました。
こちらは、紅白を一年を一日で過ごす良い時間と位置づけておりますので、この番組が消滅してしまうことが一番心配です。
この番組は、一年の歌謡界の今の状況を知るために貴重な時間でありますし、世代間の考え方の違いや自分の感性の冴え及び、衰えを感じたりする貴重な場であります。
毎年、紅白歌合戦の入場券を手に入れようとして、今年で、もう10回余も落選しました。
今では、ばからしいので、当選しようと、はがきを毎回、1万円も買うことはしませんが、それでも宝くじの購入と一緒で、いくばくかのお金を、往復はがきの購入に使いますので、その労力と出費はかなりなものです。
さて、この歌合戦は、広くまんべんなく、各年齢層にふさわしい出場者を決めるのですから、NHK関係者もかなり気を遣っているでしょう。
その割には、視聴率で人気を判断されてしまって、少しでも視聴率が下がると、紅白の時代は終わったかのように、他民放局の自社の番組を見てもらおうとする陰謀と足の引っ張り合いで、視聴者である、自分たちもいつの間にか、紅白歌合戦の時代が終わった錯覚に落とされるのは、民放の仕掛けた二重の陥穽にはまったものと同じです。
さて視聴率が下がるということは、
① 他に楽しみができた。
② グローバル化してしまった、
という、二つの流れがあります。
視聴率が、60%も70%も在った時代は、楽しみはテレビしかなかった時代で、いまは、コンピューターも発達したり、ビデオもあって
後から楽しむこともできるし、同じテレビでもその時間に、お金を払えば、自宅でも映画を見ることができる時代で、情報を取捨選択できるので、昔の時代とは、全くエンターテインメントの環境は激変しています。
このため、他の楽しみができたために視聴率は凋落しました。
次にグローバル化が進んだことです。
毎年、年末年始に放映される、スターウォーズに代表されますが、全く簡単なストーリーととアクションだけを使って、アメリカが提供する映画も、低俗というより、英語を話せない、生活環境を異にする人たちにも共通で楽しむことができる、映画制作になってしまったことです。
つまり大衆受けするように操作していますので、意味を追求したり、メロディを楽しんだり、歌詞を鑑賞することは念頭に置いていないで、単に楽しければ良いという番組制作が、よりつまらなくさせているのです。
これは、歌の世界でも同じで、歌詞で説明するには、お互いの理解能力と、同じ環境に根ざしていないと歌詞は伝わらないので、
ひたすら、単純な歌詞と、詩というより、言葉がない人同士が意思疎通をするために、アクションと簡単な言語で伝えることになります。
つまり、歌の持っている本来の詩は必要なく、リズムと和声の変化、歌手および歌手を取り巻くダンサーのオーバーアクションで、現在の歌謡界が成り立っています。
歌で心情を込めても、生活環境が広がった為に、伝わる人は限られてきてしまい、ひたすら大衆を追いかけていくので、アメリカの昨今の映画に代表される様に、ただ楽しめれば良い方向へを変換しています。
この動きは、私が習っているフラメンコの世界でもいえることで、
今は、歌とメロディックな方向で、心情を訴えるより、より、リズミックに、和声の変化で観客を盛り上げる方へと変わってきて、どの曲を弾いても、踊っても最後は、ブレリアの激しいリズムへと収束しています。
さて、グローバル化と、楽しみが増えただけでは、説明仕切れないことがありますが、それは、人を恋する気持ちの表現に、行動と言葉が絶対的に必要でが、年を取ると行動力が落ちますが、言語も世代交代をすることです。
年を取った人は、行動力が落ち、古い言語のままでいますので、当然、
行動力(アクション)と、いつの時代の言語に焦点を合わせるかで、視聴率の高低が決定されてしまいます。
日本経済新聞に、言語45年説が記載されていました。
これは、今使っている言葉は45年後には、確実に消滅する性(さが)を負っていることです。
紅白の大トリを務めた、石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」ですが、その歌詞は下記です。
上野発の夜行列車おりたときから
青森駅は雪の中、
北へ帰る人の群れは、誰も無口で
海鳴りだけを聞いている
私もひとり連絡線に乗り
こごえそうな鴎見つめ泣いていました
ああ津軽海峡冬景色
一方、若手の中では、比較的歌詞に意味のあった、竹原ピストルの
「よー そこの若いの」の歌詞は下記です。
とにかく忘れてしましがちだけれど
とかく 錯覚してしまいがちなだけど
たとえば桜やひまわりやらが、
とくべつあからさまなだけで
季節を報せない花なんてないのさ
これを子供たちに聞いてみたら、石川さゆりの歌詞の内容ですが、
上野発の夜行列車も見たことがないし、乗ったこともない、
青森駅から青函連絡船に移動する人の群れも見たことがない、
冬の凍てつく海の海鳴りを聞いたことがない、
青函連絡船も見たことがない
津軽海峡も冬景色も見たことがない。
この無い、無いづくしの中で、
ましてや、何を泣いているのかわからないの拍車がかかって、
グローバル化というのは、目的語がないので、何に対して泣いているのか、わからないとなってしまって。
これが、心象を歌った心に染みいる曲なのかとなってしまっています。
今回の紅白で、私が聞いても群を抜いて秀逸だった、竹原ピストルさんの歌の方が、
単純な言葉と、誰にもわかる言葉、
人によっては、誤解を生む形容詞を一つも使わないで、
表現していて、日本語がわからない多言語の人でも簡単に表現できる現代の作詞であるとわかります。
まさに45年の歳月が、言語の単純化の流れの中で、過ぎていこうとしている時間の隔たりを感じています。
どちらが情緒的で、風景も、自分の心情も暗喩の中で表現している世界は、一目瞭然です。
チラリズムにエロスを感じ興奮する古い世代と、直裁的な若い世代の違いと言えば、簡単ですが、同じ言葉を使っても、感受性が共有できないというか、
「かなしい」という言葉を使っても、それが、哀しいのか 悲しい 愛しいのか言葉そのものに、意味があったものが、伝わらないのです。
まさに、歌は世につれ、世は歌に連れの世界です。
毎年、古い曲を聴いて過ぎ去った自分と、来る年に向かって、一年間活躍した若い人のエネルギーと感性を、紅白歌合戦という数時間の中で体験できて、
時代に取り残された、古く死んでいく自分を再確認し、若手のエネルギーで、新しい自分を、次の年に向けて 切り開こうとする気持ちにさせてくれるいい番組です。
今年の暮れは、なんとしても、抽選に選ばれるぞ!!
お正月も終わって、はや2週間余も経ってしまいました。
相撲とグローバル化について考えたことの続きで、今回も年末年始に考えたことの、二つ目の続きです。
エルビスさんが、昨年末は久しぶりに紅白歌合戦を見たとのことで、幸いなことに、紅白歌合戦の人気凋落に、少し歯止めがかかりました。
こちらは、紅白を一年を一日で過ごす良い時間と位置づけておりますので、この番組が消滅してしまうことが一番心配です。
この番組は、一年の歌謡界の今の状況を知るために貴重な時間でありますし、世代間の考え方の違いや自分の感性の冴え及び、衰えを感じたりする貴重な場であります。
毎年、紅白歌合戦の入場券を手に入れようとして、今年で、もう10回余も落選しました。
今では、ばからしいので、当選しようと、はがきを毎回、1万円も買うことはしませんが、それでも宝くじの購入と一緒で、いくばくかのお金を、往復はがきの購入に使いますので、その労力と出費はかなりなものです。
さて、この歌合戦は、広くまんべんなく、各年齢層にふさわしい出場者を決めるのですから、NHK関係者もかなり気を遣っているでしょう。
その割には、視聴率で人気を判断されてしまって、少しでも視聴率が下がると、紅白の時代は終わったかのように、他民放局の自社の番組を見てもらおうとする陰謀と足の引っ張り合いで、視聴者である、自分たちもいつの間にか、紅白歌合戦の時代が終わった錯覚に落とされるのは、民放の仕掛けた二重の陥穽にはまったものと同じです。
さて視聴率が下がるということは、
① 他に楽しみができた。
② グローバル化してしまった、
という、二つの流れがあります。
視聴率が、60%も70%も在った時代は、楽しみはテレビしかなかった時代で、いまは、コンピューターも発達したり、ビデオもあって
後から楽しむこともできるし、同じテレビでもその時間に、お金を払えば、自宅でも映画を見ることができる時代で、情報を取捨選択できるので、昔の時代とは、全くエンターテインメントの環境は激変しています。
このため、他の楽しみができたために視聴率は凋落しました。
次にグローバル化が進んだことです。
毎年、年末年始に放映される、スターウォーズに代表されますが、全く簡単なストーリーととアクションだけを使って、アメリカが提供する映画も、低俗というより、英語を話せない、生活環境を異にする人たちにも共通で楽しむことができる、映画制作になってしまったことです。
つまり大衆受けするように操作していますので、意味を追求したり、メロディを楽しんだり、歌詞を鑑賞することは念頭に置いていないで、単に楽しければ良いという番組制作が、よりつまらなくさせているのです。
これは、歌の世界でも同じで、歌詞で説明するには、お互いの理解能力と、同じ環境に根ざしていないと歌詞は伝わらないので、
ひたすら、単純な歌詞と、詩というより、言葉がない人同士が意思疎通をするために、アクションと簡単な言語で伝えることになります。
つまり、歌の持っている本来の詩は必要なく、リズムと和声の変化、歌手および歌手を取り巻くダンサーのオーバーアクションで、現在の歌謡界が成り立っています。
歌で心情を込めても、生活環境が広がった為に、伝わる人は限られてきてしまい、ひたすら大衆を追いかけていくので、アメリカの昨今の映画に代表される様に、ただ楽しめれば良い方向へを変換しています。
この動きは、私が習っているフラメンコの世界でもいえることで、
今は、歌とメロディックな方向で、心情を訴えるより、より、リズミックに、和声の変化で観客を盛り上げる方へと変わってきて、どの曲を弾いても、踊っても最後は、ブレリアの激しいリズムへと収束しています。
さて、グローバル化と、楽しみが増えただけでは、説明仕切れないことがありますが、それは、人を恋する気持ちの表現に、行動と言葉が絶対的に必要でが、年を取ると行動力が落ちますが、言語も世代交代をすることです。
年を取った人は、行動力が落ち、古い言語のままでいますので、当然、
行動力(アクション)と、いつの時代の言語に焦点を合わせるかで、視聴率の高低が決定されてしまいます。
日本経済新聞に、言語45年説が記載されていました。
これは、今使っている言葉は45年後には、確実に消滅する性(さが)を負っていることです。
紅白の大トリを務めた、石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」ですが、その歌詞は下記です。
上野発の夜行列車おりたときから
青森駅は雪の中、
北へ帰る人の群れは、誰も無口で
海鳴りだけを聞いている
私もひとり連絡線に乗り
こごえそうな鴎見つめ泣いていました
ああ津軽海峡冬景色
一方、若手の中では、比較的歌詞に意味のあった、竹原ピストルの
「よー そこの若いの」の歌詞は下記です。
とにかく忘れてしましがちだけれど
とかく 錯覚してしまいがちなだけど
たとえば桜やひまわりやらが、
とくべつあからさまなだけで
季節を報せない花なんてないのさ
これを子供たちに聞いてみたら、石川さゆりの歌詞の内容ですが、
上野発の夜行列車も見たことがないし、乗ったこともない、
青森駅から青函連絡船に移動する人の群れも見たことがない、
冬の凍てつく海の海鳴りを聞いたことがない、
青函連絡船も見たことがない
津軽海峡も冬景色も見たことがない。
この無い、無いづくしの中で、
ましてや、何を泣いているのかわからないの拍車がかかって、
グローバル化というのは、目的語がないので、何に対して泣いているのか、わからないとなってしまって。
これが、心象を歌った心に染みいる曲なのかとなってしまっています。
今回の紅白で、私が聞いても群を抜いて秀逸だった、竹原ピストルさんの歌の方が、
単純な言葉と、誰にもわかる言葉、
人によっては、誤解を生む形容詞を一つも使わないで、
表現していて、日本語がわからない多言語の人でも簡単に表現できる現代の作詞であるとわかります。
まさに45年の歳月が、言語の単純化の流れの中で、過ぎていこうとしている時間の隔たりを感じています。
どちらが情緒的で、風景も、自分の心情も暗喩の中で表現している世界は、一目瞭然です。
チラリズムにエロスを感じ興奮する古い世代と、直裁的な若い世代の違いと言えば、簡単ですが、同じ言葉を使っても、感受性が共有できないというか、
「かなしい」という言葉を使っても、それが、哀しいのか 悲しい 愛しいのか言葉そのものに、意味があったものが、伝わらないのです。
まさに、歌は世につれ、世は歌に連れの世界です。
毎年、古い曲を聴いて過ぎ去った自分と、来る年に向かって、一年間活躍した若い人のエネルギーと感性を、紅白歌合戦という数時間の中で体験できて、
時代に取り残された、古く死んでいく自分を再確認し、若手のエネルギーで、新しい自分を、次の年に向けて 切り開こうとする気持ちにさせてくれるいい番組です。
今年の暮れは、なんとしても、抽選に選ばれるぞ!!
ルールの明文化 相撲48手について ― 2018/01/21 20:00

写真は、会津若松に在る「雪のさざえ堂」です。さざえ堂については、また改めてブログ掲載します。
今年の新年の初場所は、白鳳、稀勢の里と、両横綱がそろって休場したので、今一歩盛りあがらない場所になってしまいました。
今日、追い打ちをかけるように、大砂嵐が無免許運転で事故を起こし、妻を身代わりにさせようとしたことなど風紀が乱れています。
相撲界も、規定したことやルールをちゃんと明記しないと、口頭ではもう伝わらない時代、「以心伝心」の時代は、多くの外国人が土俵に上がることで終わったことを痛切に感じています。
高見山が頑張っていた時代は、高見山本人が、日本人より日本人らしく振る舞ったことで、相撲の風紀が守られていましたが、今は、上位陣に外国人が支配しているので、日本の暗黙知の感性がわかりませんし、伝承されません。
白鵬の休場は、明らかに、一連の不祥事での罰則で、給料をもらえないことで、外国人には給料をもらえないのに、働くことは理解できないでしょう。
私が、以前勤めていた会社では、給料遅配が続くようになったら、日本人の従業員は、ひたすら耐えて会社を存続させ、守ろうとしましたが、外国人の人たちは、「今日は、パスポートの確認で、外務省に行く」とか、いろいろな理由を言って、歯を食いしばって耐えるより、会社に見切りをつけて、次の職場を探していました。
その点、日本人は、ぎりぎりに追い詰められてから、ようやく重い腰を上げます。
最後まで、しがみつくことが美徳の社会で、しかも会社を死守してきた人を、次の会社でも、信頼の足る人物だと優遇する風潮があります。
さて ルールの明文化ですが、
白鵬が、得意の「張り差し」と「かちあげ」を「禁止」されて調子が狂って休場になったのも、給料以外に、もう一つの一因ですが、彼に取って、相撲の決まり手に記載があるのに、なぜその技を、横綱になったら使っていけないかが理解できていないのではないでしょうか?
日本人の中にも、相撲の暗喩のルールを理解していない人には、決まり手で定められているのに、横綱に使ってはいけないと規制するのは、おかしいと言っている人がいます。
相撲の決まり手の暗喩のルールですが、この「張り手」と「かち上げ」ですが、番付の下位のものが、絶対に目上の番付の力士に使ってはいけない暗黙のルールがあるのです。
この暗黙のルールも、明文化して、目上にも使って良いとして、その技の使用は、上位力士に対して失礼に当たらないと定めれば、皆が気楽に使い始めて使うことができるようになります。
そのときは、立ち会いがすべての相撲は、相撲でなく、単なるフットボールの立ち会いか、殴り合いのボクシングの場になってしまうでしょう。
日本人でもわからなくなった暗黙知の相撲のルールをもう一度、明文化して、国際社会にふさわしい相撲界に変容してほしいです。
きれいな相撲が理解できない外国人に対して、そろそろ、張り手もかち上げも禁じ手にすべき時代かもしれません。
今年の新年の初場所は、白鳳、稀勢の里と、両横綱がそろって休場したので、今一歩盛りあがらない場所になってしまいました。
今日、追い打ちをかけるように、大砂嵐が無免許運転で事故を起こし、妻を身代わりにさせようとしたことなど風紀が乱れています。
相撲界も、規定したことやルールをちゃんと明記しないと、口頭ではもう伝わらない時代、「以心伝心」の時代は、多くの外国人が土俵に上がることで終わったことを痛切に感じています。
高見山が頑張っていた時代は、高見山本人が、日本人より日本人らしく振る舞ったことで、相撲の風紀が守られていましたが、今は、上位陣に外国人が支配しているので、日本の暗黙知の感性がわかりませんし、伝承されません。
白鵬の休場は、明らかに、一連の不祥事での罰則で、給料をもらえないことで、外国人には給料をもらえないのに、働くことは理解できないでしょう。
私が、以前勤めていた会社では、給料遅配が続くようになったら、日本人の従業員は、ひたすら耐えて会社を存続させ、守ろうとしましたが、外国人の人たちは、「今日は、パスポートの確認で、外務省に行く」とか、いろいろな理由を言って、歯を食いしばって耐えるより、会社に見切りをつけて、次の職場を探していました。
その点、日本人は、ぎりぎりに追い詰められてから、ようやく重い腰を上げます。
最後まで、しがみつくことが美徳の社会で、しかも会社を死守してきた人を、次の会社でも、信頼の足る人物だと優遇する風潮があります。
さて ルールの明文化ですが、
白鵬が、得意の「張り差し」と「かちあげ」を「禁止」されて調子が狂って休場になったのも、給料以外に、もう一つの一因ですが、彼に取って、相撲の決まり手に記載があるのに、なぜその技を、横綱になったら使っていけないかが理解できていないのではないでしょうか?
日本人の中にも、相撲の暗喩のルールを理解していない人には、決まり手で定められているのに、横綱に使ってはいけないと規制するのは、おかしいと言っている人がいます。
相撲の決まり手の暗喩のルールですが、この「張り手」と「かち上げ」ですが、番付の下位のものが、絶対に目上の番付の力士に使ってはいけない暗黙のルールがあるのです。
この暗黙のルールも、明文化して、目上にも使って良いとして、その技の使用は、上位力士に対して失礼に当たらないと定めれば、皆が気楽に使い始めて使うことができるようになります。
そのときは、立ち会いがすべての相撲は、相撲でなく、単なるフットボールの立ち会いか、殴り合いのボクシングの場になってしまうでしょう。
日本人でもわからなくなった暗黙知の相撲のルールをもう一度、明文化して、国際社会にふさわしい相撲界に変容してほしいです。
きれいな相撲が理解できない外国人に対して、そろそろ、張り手もかち上げも禁じ手にすべき時代かもしれません。
物騒です。 ― 2018/01/28 20:19

オリンピックも近づいて、北朝鮮と韓国が一時的に休戦状態に入ったのは、
政治的パフォーマンスであれ、良かったです。
ここしばらくは、北朝鮮もミサイル発射の実験を行わないと思いますので、アラートも鳴らないことでしょう。
知人が今年の年末年始にかけてグアムに旅行に行ったら、その人は毎年グアムに、この時期を見計らって旅行に行くのですが、例年になく、観光客が少なくて不気味と言っておりました。
また、ハワイでもJアラートのように緊急のアラートが鳴った時に、間違い発信であったことを周知させるのが遅れたばかりに大混乱を招いた情報がニュースで伝達されました。
この状況を鑑みますと、アメリカではもう有事の体制になっている感じを受けております。
特に、最近沖縄で、ヘリコプターの墜落や不時着、防風窓の落下など、ヘリコプターやオスプレイの不祥事が相次いでいます。
これも、アメリカ軍はすでに、有事に備えて、過酷な訓練を行って居るので、ヘリコプターやオスプレイに無理が祟って、異常が発生しているのです。
通常、普通の使い方をしている限り、ヘリコプターや垂直移動を行うオスプレイは、落下したり不時着したり、部品が外れるものではありません。
相当な実戦訓練がおこなれているのでしょう。
今一番心配していることは、安倍総理が、アメリカの言いなりになって、北朝鮮に圧力をかけようとすることです。
アメリカと言う国は、自国が戦争に巻き込まれたことがありませんし、
戦争を行っても、いつも自国から一番遠い国において、自分の国が傷つかない位置の場合のみ、戦争を仕掛けます。
また、トランプの発言に代表されるように、白鴎主義ですので、白人国家には戦争を仕掛けることはなく、領土侵略をすることもなく、常に有色人種の国に対して戦争を仕掛けます。
アメリカの挑発にのって一番被害が発生する国は、韓国と日本です。
日本人だけが、有事であることを認識していないで、
最も水と安全は、ただと思って、有史以来来ていますので、
のほほんと暮らしています。
圧力外交だけでないことを、アメリカの手先になって左右されることなく、平和的外交を行う必要があります。
北朝鮮に核を放棄させる代替案として、北朝鮮の何万倍も核を持っている、核保有国に対しても核の放棄を唱えて行動するのも一手です。
日本をなんとか守らないと、北とアメリカの両国のつば競り合いで、一発で日本は終わってしまいます。
ゴジラよ日本を助けてほしい。
政治的パフォーマンスであれ、良かったです。
ここしばらくは、北朝鮮もミサイル発射の実験を行わないと思いますので、アラートも鳴らないことでしょう。
知人が今年の年末年始にかけてグアムに旅行に行ったら、その人は毎年グアムに、この時期を見計らって旅行に行くのですが、例年になく、観光客が少なくて不気味と言っておりました。
また、ハワイでもJアラートのように緊急のアラートが鳴った時に、間違い発信であったことを周知させるのが遅れたばかりに大混乱を招いた情報がニュースで伝達されました。
この状況を鑑みますと、アメリカではもう有事の体制になっている感じを受けております。
特に、最近沖縄で、ヘリコプターの墜落や不時着、防風窓の落下など、ヘリコプターやオスプレイの不祥事が相次いでいます。
これも、アメリカ軍はすでに、有事に備えて、過酷な訓練を行って居るので、ヘリコプターやオスプレイに無理が祟って、異常が発生しているのです。
通常、普通の使い方をしている限り、ヘリコプターや垂直移動を行うオスプレイは、落下したり不時着したり、部品が外れるものではありません。
相当な実戦訓練がおこなれているのでしょう。
今一番心配していることは、安倍総理が、アメリカの言いなりになって、北朝鮮に圧力をかけようとすることです。
アメリカと言う国は、自国が戦争に巻き込まれたことがありませんし、
戦争を行っても、いつも自国から一番遠い国において、自分の国が傷つかない位置の場合のみ、戦争を仕掛けます。
また、トランプの発言に代表されるように、白鴎主義ですので、白人国家には戦争を仕掛けることはなく、領土侵略をすることもなく、常に有色人種の国に対して戦争を仕掛けます。
アメリカの挑発にのって一番被害が発生する国は、韓国と日本です。
日本人だけが、有事であることを認識していないで、
最も水と安全は、ただと思って、有史以来来ていますので、
のほほんと暮らしています。
圧力外交だけでないことを、アメリカの手先になって左右されることなく、平和的外交を行う必要があります。
北朝鮮に核を放棄させる代替案として、北朝鮮の何万倍も核を持っている、核保有国に対しても核の放棄を唱えて行動するのも一手です。
日本をなんとか守らないと、北とアメリカの両国のつば競り合いで、一発で日本は終わってしまいます。
ゴジラよ日本を助けてほしい。
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