日本化あるいは国際化か?2018/01/07 20:53

新年明けましておめでとうございます。
年末年始の休みもあっという間に終わってしましました。

写真は、昨年末に訪れた郡山市に在る、開成山大神宮、通称、みちのくのお伊勢さんです。


年末年始にかけて、いろいろなことを考えた休みでした。

一つは、日本人の所作についてです。

連日、相撲界の不祥事のことで、マスコミがあれこれ取り上げており、
それを拡大解釈して、貴乃花対相撲協会、モンゴルと日本の戦いの様な状況まで作り上げて、国土が狭小な日本ですが、さらに狭小な日本の心のあり方まで発展してしまいました。

相撲界も、海外の力士を土俵に上げたときから、国際化の流れには逆らえないのですが、その流れにうまく乗れない、現状を露呈してしまっています。

特に、貴乃花の行動に、古い日本人丸出しの感を持っております。

沈黙は美徳、くちびる滅びて歯寒しの、何も語らない所作を見る度に、
彼では、もう国際化の道をたどりつつある相撲界の改革はできないと判断されます。

日本人の説明べたは、今に始まったことではありませんが、
日本が世界に発信する能力が無いだけに、至る所で、多くの損失と誤解を生み出しております。

今回の事件後の協会および貴乃花の行動については、モンゴル人はもとより、海外の人たちには何が何だかわからないと思います。

また、一方的に、貴乃花が悪いだの、モンゴル勢が悪いだの、相撲界が隠蔽体質のままだとか、あれこれ言うのも、記事を売ろうとする意図が丸見えで哀れさすら覚える、いつものマスゴミの悪いところです。

日本人が特に求められていることは、世界に通用する英語教育でも、おもてなしの心でもありません。

日本人が、しっかりとした日本語と自己の存在感、信念を持って、世界に発信する能力、考えを説明できる能力がないと、これからの社会では生き残って行けないのではないでしょうか?

白鳳が、日本に帰化しない限り、親方になれないと発言したことについても、出稼ぎできた彼が、相撲をビジネスとして、一方的な見方をしていることに端を発しているとおもいます。

日本は、古くから異国や、さすらい人を招き入れて、あたらしい考えかを取り入れる文化がありますが、根底には日本を壊す思想には、多大な拒否反応を示します。

相撲は、現在、公益法人になってしまったので、宗教色、とりわけ、神事について公に言及できる立場でなくなったことも一因ですが、スポーツとしての相撲、金を稼ぐ場としての相撲以外に、
日本人が農耕民族として、五穀豊穣、安寧社会の祈念として、地の神様を鎮める目的での相撲があります。

相撲の発生は、古事記の国譲りやオオゲツヒメがスサノウに、稲の種、粟、小豆、麦、大豆の種を渡し、実りの神として渡したところから発しています。
その荒ぶる神(スサノウ)の体現者である相撲取りに、地方巡業をとおして、国土の豊穣を伝搬する神聖なスポーツでもあります。

稲作のない、モンゴル人が外来種のまま、親方になる発言は、農耕民族が、放牧民族に、単に騎馬民族が強いと言うだけで、その精神を売り渡す、売り渡せという言動でしかありません。

外国人を土俵に上げる、上げない以前に、和暦や、四季の、立春 啓蟄 春分、など24節気に基づいて、農作とともに行動してきた日本人の
有り様を根底から覆す発言であります。

同じ土俵に上げることは、恵比寿さまや布袋様など、異国のものを受け入れて、いいものを取り入れる日本の知恵、行動、所作であります。

外国からきたもの、よそ者を日本という土俵に上げて、異国の考え方、異国の戦い方、敗者への接し方、勝者の振る舞いをみて、お互いの心情を分かち合うことを行って居るのであって、農耕民族としての風土を理解したかとはと完全に違っています。

土俵に上げるのに、なぜ帰化しないとと言うことは、日本の風土、農耕、四季を理解しないものと同列です。

相撲界も荒れておりますが、すべての功罪の根源は、貴乃花に代表される、話さなくてもわかるだろうとする、同一民族の中で育った日本人のプレゼンテーション力のなさであります。

国際化に遅れない、他の国の日本を蹴落とす、永久犯罪国の様な他国の言動について、断固たる反論としての表現力を持っていくことが、これからの国際化の方向として必要です。