きちがいに刃物2012/11/04 20:45

もともと、自民党から民主党に鞍替えしただけで、
また、この国のあるべき姿を、本にして出版する行為もなく、
たんに親の七光りで、本人は何も実力も方針もない、
むしろ迷惑老人でしか無いのですが、もっとも危険な大臣に、刃物を与えたばかりに、
今回も、来年予定する新設大学の認可が通らないという、前代未聞の事態が発生してしまいました。

本人に言わせれば、大学の質が落ちたことに対する歯止めとかで、ふざけたことを言っていますが、
本来大学改革は、新設大学を作って、魅力のない大学は早く淘汰させたほうがいいと感じています。
市場原理が、大学には及ばないという考え方すら、古さを感じます。

この困った、老腐女子は、新設をつくらず、既存の大学の勢力だけを保護しようとする、呆れた答弁しか無いのが現状です。

また、老腐女子が発言する、大学の設立については、文部省の一部の人間だけが仲間内で関与していると言っていますが、
新設大学の教授会の陣容を決めるのは、学長になる人が人選するのですから、内閣が、首相が大臣を人選するのと一緒で、東大を頂点とする、大学教授への信認システムと、天下りシステムは、一朝一夕には変えられない、壁があります。

国を憂いて、止むにやまれない気持ちで、東京都知事を辞職して、国政に出馬を決意した「暴走老人」こと、石原慎太郎氏と比較しても、
この迷惑腐女子老人には困ったものです。
もっとも、あの石原氏にとっても、ハシズムの橋本さんに振り回されているのは、志は尊いのにかわいそうな感じがします。

さて、老腐女子は、今回の認定不許可について、それぞれの設立要請大学関係者に、どのように説明するのか?
大学に於ける認可条件は何か、じっくり聞いてみる必要がありますが、先のような詭弁では、到底、今回の暴挙は許せるものではありません。

先代の内閣総理大臣の小泉さんの時代に、誤って人選したために起こった数々の暴挙や愚行に対して、「スカートの裾を後ろから踏んで、困る。」などと、珍回答発言もありましたが、
心ある他人の見えないところでの、助言や暖かいフォローもわからないこの腐女子は、今回もまた、呆れた行動をとってしまいました。

そもそも、大学設置認定基準はどのようなものか、この腐女子老老人には、わかっているのだろうか?

私は、以前、大学を開設することに、2つの大学に、建築という立場で参加させてもらいましたが、本当に、新設大学の開校は、建設一つをとっても大変なことであり、今回のように、最終審査を受けるまでの道程を振り返ると、関係者の深い悲しみを感じ得ません。

文部省と、実に、何年にも渡る交渉の末ようやく開設されることのできる大学ですが、実に開校許可までには、何年にもわたる多くの時間を費やしています。

確かに、一年目の申請までには、多くの注文を文部省の設置基準を審査する担当者に、いじめのような応対はあり、改革の余地は、老腐女子の話すよう感じるところはあります。

しかし。今回、設立が否決された最終年度は、
予定通り、建設が完了できるのか、
予定通り大学の教官が確保さているか、
申請通り運動場を含む施設がも確保できているか
購入予定であった図書類も予定通り購入が完了しているか、
入学させた生徒を、その後、定員割れしたあとでも、無事4年間
生徒を卒業させることができるように、資金繰りがしっかりしているかなど、それまでの設置基準で決められていたことを、その開講する大学の場所で、その実態を確認する作業であり、この審査に落ち度がなくて、開業ができないことは、ありえないことであります。

建設的な観点では、何年にも渡る審査の打ち合わせ後に、開校の前前年度に提出される審査書類が、今年の6月に(これは、たいてい省庁の人事異動が、6月にならないと落ち着かない事による弊害ですが)1次審査が降りた時点で、着工となり、わずか9ヶ月から10ヶ月の間に、超突貫工事で、建物を竣工させて、3月には、検査済証を受領し、文部省に、建物が完成した報告を提出しなければ成らない、大変きつい仕事を致します。

また、大学側は、開校一年前には、大学教授や教員の人員を、申請通り固めていなくてはならず、授業も生徒もいない中で、一年余に渡り、教員に給料を払わなければならず、開校基準を満たす、莫大な実験器具や、図書も購入した実績を積んで開かなくてはなりません。

また、開校に向けての、大学側の自己資金の提示、つまり、大学が確実に開校できるために、すべて自己資金で建設や開校にこぎつけなくてはいけませんし、
生徒が入学したら、その第2期生まで、責任をもって卒業させるためのゆとりの資金も持っていなくては行けません。

私は、大学の設計や建設に携わることができるのは、万に一つの幸運でありますが、その希少な設計に、2回も大学を設立関与できました。

しかし、その内、ひとつの大学が、2年目審査の時、提出要件を満たすことができなくて、開業が一年延期になりました。

その時の、大学の理事長の塗炭の苦しみ、
すでに入学を予定された生徒へのお詫びや、
入学募集に回った高等学校へのお詫びの行脚など、
入学を決めていたものの子供の人生を狂わせ、
また、地方であれば、町を上げての誘致強力に報えなかったことへの議会への報告、
すでに他の大学を辞職した教員にも、来年の開校に向けての、つなぎとめの工作をしたり、
完成した誰も使われない校舎を一年間さらに、保持しなくてはならないなど、
開校に際して作った多くの案内書、パンフレット等の破棄・・

その一つ、一つが、今回の事件は、大学設立側に何も落ち度が無かったことで、単に、思いつき老腐女子のワンマンで、すべてが水泡に記したことを、やるせなく感じます。

本当に、野田首相は一生懸命頑張っていることはわかっていましたが、一人がいくら頑張っても、こんな腐女子大臣が登場したことで、もう、民主党の政権は、一日も早く本当に終焉してもらいたいと切に願っています。

「 夫婦は似たりといったもの、ともに迷走、迷惑大臣。」

「 退場は、時間の問題、怠状で 」

「 雪に閉ざされ 出てくるな もう許せない 不毛の輩 」

佐原と伊能忠敬2012/11/18 20:12

先日、千葉県の香取市「佐原」に行って来ました。

佐原は、江戸時代に,水運を利用して栄えた町ですが、その江戸の隆盛の時代を彷彿させるように、町並みが保存された江戸情緒あふれる町であります。

佐原も、一年半前の大地震で被害を被った土地であったようで、護岸の石垣や、古い町並みが至る所修復されていたり、まだ、修復途中の家も残っていました。

その修復中の建物の中に、伊能忠敬旧宅がありました。

伊能忠敬は、佐原で、かなり成功された商人でありましたが、50歳の時、家督を長男に譲ったあと、江戸の出て、江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた人です。

6年の勉強の後、56歳で、蝦夷地や、江戸と蝦夷地の間の測量も行なって、第1次測量を完成し、その測量の精度の高さから、次第に幕府に重用されうようになったようです。

今で言えば、隠居して、新しく、天文学や測量学の勉学に励み、その成果を、私財をなげうって、日本を測量して日本地図を完成させたことで、
実に、驚嘆すべきことです。

その後、ペルーが開国を迫るときに、日本との戦争になった時のために、海岸線を測量したら、伊能忠敬の作成した地図と全く一緒であったことに驚いた話があります。

ペルーが来日した当時、先進国、しかも2~3ヶ国の欧米国しか作成できないと思っていた地図が、すでに未開の日本にその技術があったことで、日本の先進性を認識し、植民地化することが困難だと判断したようです。
まさに、地図が、日本の植民地化を救ったのでした。

佐原の町には、伊能忠敬博物館があり、そこに入りましたら、彼が作成した地図のレプリカが掲載されていましたが、それを見た時に、どうやってこれを描き上げたのだろうかと、本当に驚きました。

また、大きな地図と、地図上に髪の毛一本の筆でなくては書き込めないような細かな文字と、地図の作成過程をみて、更に圧倒されました。

隠居後の、このエネルギーを見るにつけ、伊能忠敬氏は、日本の誇りであるとともに、我ら、実年、壮年の星であり、これからの生き方を大いに示唆してくれるもので、先陣を切って道標を見せてくれた人であると感銘を受けました。

ぼーるぺん古事記と人間讃歌2012/11/25 22:29

先週の水曜日の夜頃から右の歯茎が腫れて、ここ数日は、憂鬱な連休を過ごしました。

木曜日に、歯医者に飛び込んだら、いきなり麻酔なしで歯茎の腫れた部分に、針を突き刺さされ、膿を搾り取られました。

その後、荒治療のためか、また、歯肉が晴れて、瘤取り爺さんのようになってしまい、腫れが収まらず唸っていました。

荒治療をしたので、医者に禁じられお酒も飲めず、頬が熱を持っているので、気力が充実せず、じっと我慢の日々でした。

さて、外出するのもままならないので、買いだめた本を読んだら、
こうの史代さんの、「ぼーるぺん古事記」 の漫画にすっかり魅了されてしまいました。

初めに言葉ありきの、西洋社会と違って、日本には、中国から文字が伝来するまで、文字のない社会でした。

古事記の成立には、古今の学者が解明を下そうとしていますが、
日本に文字がなかったばかりに、漢字伝来後に記載されたというハンディがあるために、その成立は不明な点が多く、日本を後進国とみなす、西洋学者からは、すべてデタラメといわたりして、未だ結論が出ていないものであります。

漢字が日本に入ってすぐ、今まで口述で伝承されたものの多くが、書き留められました。

文字の無い文明が未開とする、西洋世界の歴史観では、文字の無い世界の文明がどのくらい、進んでいたかわからないものです。

漢字が伝来した瞬間から、日本では、古事記や日本書紀を始め、
万葉集や、その後、女流文学の源氏物語など、多くの文学が、人間の喜怒哀楽を唄って開花します。

これは、単に文字が伝来したことではなくて、その根底には、かなり進んだ精神文化が存在したことの証で、しかも、天皇も民(たみ)も防人(さきもり)も皆、平等に、詩を歌い、同列に、万葉集などは編纂されているのです。

平安時代に記載された源氏物語にいたっては、女性が、しかも人間の男女の愛欲、喜怒哀楽、貴族社会での栄華盛衰、死に至る老いの苦しみなど、表現され、言葉が先にあってある事象を説明するのではなく、
言葉にならない精神世界を言葉でない、言霊(ことだま)で表現されていたことが、漢字の伝来から一挙に表出されたのです。


西洋では聖書に書かれたものはすべて正しいものとして
それ以上を詮索しない不文律というものができております。

キリスト教でないものから見れば、矛盾だらけの書物が、単純な疑問もいだいてはいけないようで、すべては本当の出来事と認識されているように、これと同様な見地で、古事記を俯瞰すれば、
古事記も書かれたことはすべて正しいとすると、(もっとも、それが作り話としても)、実に壮大な、豊かな世界観を、古代日本人が持っていたように感じます。

西洋では、ルネサンスを通して、ようやく人間復興が叫ばれ、人間の感情表現が豊かになって来ましたが、西洋より、数段 進んでいた東洋社会では、ルネサンスなどを経なくても、もともとルネッサンスなど存在しない独自の歴史を歩んでいるのですが、人間賛歌に満ちた環境を持っていました。

よく、神話をなくした国は、滅ぶと言われているように、
神話の世界の亡くなった世界は、不毛であります。

ギリシャ文明が、一神教に飲み込まれて神話をなくして、一挙に滅んだように、神話をなくしたことで、アニミズムというべきか、その精神世界が一挙に崩壊し、その崩壊した人間讃歌、精神世界を取り返すのに、また、人間復興、ルネサンスという気の遠くなるような時間をを経ないと行けませんでした。

その点、日本は、漢字が伝来するまでに、人間讃歌の土壌、また、喜怒哀楽に満ちた精神文化を持った文明が、古事記や万葉集を見るにつけ、すでに築かれていたことがわかります。

こうの史代さんの「ぼーるぺん古事記」が、戦争時代に歪曲化された古事記の歴史観を、また、もとの人間賛歌の精神風土(驚くほど自由で、残酷でしかも、着飾ることの無い世界)の日本をボールペンを使って、絵物語として再現してくださり、また、日本人であることの精神基盤を示してくれたことは大いに評価でき、最近に無い感動を受けた図書でした。