変わることは醜いか?2012/04/15 20:48

先週、千鳥が淵で撮った桜の写真を掲載するのが、1週間遅くなったので、掲載写真も時節を表していません

いま、東京は、もうどこもかしこも、葉桜になってしまっています。
葉桜は、古今より、人は愛でてはくれませんが、人であれ、動物であれ、植物であれ、変化のプロセスの途中は、とても醜いものであります。

4月より、新学期が始まり、何か新しく始めようとする心が、新年を迎えた時より強いのは、この桜の季節のようやく春が来たという、心待ちにした気持ちが、春という季節感を桜が代表させてくれるからでしょう。

この素晴らしい季節での、何か新しく始めようとする季節の高揚感を、
いまは、世界の潮流で9月入学などという動きが、東大を筆頭に動き始めていますが、この日本の春の心を知らない、四季の無い所で育ったものの愚が、断行されようとしていることは嘆かわしいことです。

優秀な人材が東大に来ないという危機感が、9月入学を押し上げていますが、いくら9月入学にしても、日本や日本の大学に魅力が無ければ、しいては、日本で学んで金や名誉、栄達に結びつかなければ、誰も世界から、人は来ないのであります。

いまは、中国が儲かると思えば、急に中国語を学んだり、インドと言えば、インドに流れるように、制度を変えても、人の流れは変えられないのが常であります。

桜を見る度に、
年年歳歳花あい似たり  歳歳年年人同じからずと
白頭を悲しむ翁に代わるの中国の漢詩が、思いだされますが、
毎年咲く花は、いつも変わらないのに、人だけが年月を経て、どんどん代わって行くことを

しかし、欲望につられて、変わっていくのは、葉桜と一緒で醜いか?
いや、花でも、蝶でも。人でも、変わって行く途中は、醜いのが常なのかも知れません。

変わって変わって、次のきれいな形に落ち着くまでに、醜態をさらけ出すことが、普通なのかも知れません。

4月も半ばを迎えました、何かやろうと、何か変わるために、醜くさをさらけ出すことから始めるのが、第1歩かも知れません。