蒙古の影響2010/09/05 20:44

中央アジアの騎馬民族の「フン」が、4世紀から西進を初めて、ゲルマン民族の大移動の発端になったことは、歴史の転換としては、大変重要なことです。

フン族の、移動の引き金を引いたものは、蒙古人であり、彼らはゴビ砂漠のあたりの草原地帯で、遊牧を営んでいました。

蒙古人は、12世紀にチンギス・ハーンが登場して、モンゴル帝国を築きあげましたが、それをさかのぼること、8世紀前に、早くも、周辺の民族に大いなる刺激を与えていたことは、その活動範囲の大きさと、影響力に、驚くべことであります。

今年の夏休みに、トルコ両行に行くチャンスを得ることができ、
トルコ共和国の前身が、蒙古人であり、トプカプ宮殿でトルコ王宮の民族衣装が、色濃く蒙古の文様を呈していることを、見るにつけ、蒙古の文化文明、民族が深くかかってきたことを感じました。

蒙古人の活動は、西進したものと、東進したものとで、大きな二つの流れがあると思われますが、西洋に移動した西進グループが、他民族への殺戮や、残虐性を帯びているのに対して、東進したものは、逆に中国というフィルターを通して、融和、温和になっていったのではないかと考えています。

次回から、少しこのことについて触れてみようとも思っています。

漫画は、なぜ偏見があるのか?2010/09/12 20:44

スケッチを整理していたら、昔描いた、ドラゴンボールの「ブルマ」の模写が出てきました。
子供が小さい頃は、よく漫画の模写をしたりして、子供に絵を教えたり自分で楽しんだりしました。

漫画は、今、世界的ブームになって、日本文化の一端を担いようになり、さらに、漫画を通して、日本人の感性や、喜怒哀楽が、世界共通の言語になってくることを感じると嬉しさを感じます。

上記の「ブルマ」を描いた作品は、鳥山明氏の「ドラゴンボール」で
この作品は、アジアのみならず、ヨーロッパ全土にも、漫画だけでなく、アニメも放映されているほど広まっています。

漫画は、子供の読むものであり、低俗であると評価している偏見を持った大人は多いのです。
世界をの中では、とくにアメリカが、漫画に対しては偏見度が高く、質の高い漫画が生まれておりません。

漫画が好きな私でも、通勤途上で漫画を読んでいる人を見ると、
その隣で、エロ小説を開いて読んでいる人より、低俗に感じるのは、
小さい頃からの教育の弊害かも知れません。

本年より、APPLE社が「IPAD」を発売し、
書籍も電子データ化され、より、ビジュアルになってきていますが、
この一連の流れの中でも、写真集を眺めている人より、
漫画を見ている人のほうが、同じ、ビジュアル媒体なのに
漫画に対してだけは、異常に偏見度が増すのは不思議なことです。

しかし、漫画を模写したことがあれば、いかに少ない線の中で、
喜怒哀楽の表現はおろか、緩急の動き、遠近感も表現されており、
その技法の高さに圧倒されます。

「バカボンド」の作者である、井上武彦氏は、
現在連載中の武蔵の表情を、ひとこま描くのに、多大な時間と葛藤があることをNHKのトップランナーで、放映されたとき、
やはり、日本の漫画は、作者自身の損得抜きにした、作品への追及心が、人に感動を与える名作を生み出しているのだと感じました。

識字率の低かった時代は、文字を読めることが高尚であり、すごいことだと周りの人は思っておりました。

しかし、文盲率が、ほとんどゼロに近くなった現代、
コンピューターも、音楽も、芸術もすべてが、特権階級から庶民に行きわたった時代、人々の価値観も多種多様になってきたこの時代では、
本だけ読んでいればよいとすることの、
文字で伝達する限界をいち早く感じ、
あらゆるメディアを使い回すことができ、
表現伝達できる能力が問われているのではないでしょうか?

作者と同じ世界で、物を見ることのできる漫画は、文字だけの世界より、世界言語としての可能性を感じます。

漫画 文化論2010/09/18 17:48

前回に引き続いて、書きかけのドラえもんの漫画が出てきました。
ふたたび漫画の話をしようと思います。

日本の漫画がなぜ、世界中に広まったのか?
また、日本が漫画やアニメが他の国の追随を許さないほど、先端を走っていたのか?
多くの好奇心を掻き立てる話題に事欠きません。

NHKの朝の連続不ドラマで、今年は、「げげげの女房」が放映されており、松下奈緒のキャラクターとともに、爆発的な人気を集めています。

ドラマは、水木しげるが貧しいかった時代に、嫁いだ水木しげるさんの奥さんの目を通して、漫画家水木しげると、漫好きなことをして生きる漫画家魂をの生態と生きざまを見せてくれています。

日本の漫画がなぜ、現在このように世界的に認知されてきたのかという背景の一つの回答は、
損得抜きで、漫画家が、好きなことにいちずに打ち込んでいることがあげられるのではないでしょうか。

日本の伝統工芸の職人さんの心意気に匹敵する、そのひたむきさが、他人を感動させているのではないかと思われます。

さらに、そのひたむきさが表れた紙面以外に 西洋と東洋の文化の差異が、美術感が、ようやく西洋文明に住み人たちにわかりはじめられて、異質な文化のとらえ方、ふれあい方がが、より人々の好奇心を刺激され、認知されてきたことがあげられるでしょう。

歴史を振り返れば、欧米諸国や、イスラム諸国では、一神教の国が多く、偶像崇拝を禁じられてきたので、東洋宗教、たとえば、仏教にあるような、男女はおろか、鳥獣に至る、さまざまな(仏)像を持つことがありませんでした。

多神教であった、ギリシャ文明、紀元300年代に、コンスタンチヌス1世がキリスト教を国教と認知する途中まで、多神教であったローマ時代でも、東洋のように、さまざまな立体像を生み出すことが少なく、もっともキリスト圏ややイスラム圏に征服を繰り返されてしまったために、ほとんどの偶像が破壊されてしまったのか、唯一、戦争や力を誇示する男性の裸体像か、豊かさの象徴である、女性の裸婦像、また、ビーナスと称して、女性の裸体を正当化して表現している壁画しかなく、好奇の対象が、エロスと戦であったことがわかります。

ルネサンス機にいたって、一挙に芸術は開花され、人間復興がうたわれ、キリスト史観から解放され、多くの芸術が一挙に花開き、排出されましたが、西洋文明では、人間がすべての生物の頂点に立っている宗教感が物の見方の立脚点でありますから、人間そのものを動物として見る観点はありません。

よく日本における漫画の原点は、12世紀、13世紀の平安、鎌倉時代に描かれた「鳥獣戯画」であるとする説がありますが、
人間を動物と同じ、生きとし生けるものの、一員としてとらえる、東洋人、日本人の世界観がこの鳥獣戯画を描かせたベースにあると思われます。

人間が動物と同じであり、人間と動物とを分けている身近な例では、他人から非常に悔しい思いをさせられたとき、よく口に出される言葉に、「ちくしょう!畜生!」という言葉があります。

この「ちくちょう!」という相手に対する放言、罵倒語ですが、人間も動物の一員であるが上、人間としての品行を落とせば、すぐに、犬や猫のように畜生になり下がってしまうとする生活感が、非常な人間に対して、某物のように生きている奴だと批判して、畜生という言葉が浸透しております。

人間が一番偉いとする、西洋的な考えでいる世界観の中では、漫画はなかなか活力を持つことができません。
漫画の歴史の中では、イギリスのピアトリクス・ポターが、イザーランド・ドウーフというウサギの種類を模して、ピーターラビットを生み出したのが、1893年から1902年ごろです。

その後、ウォルト・ディズニーが1928年に、蒸気船ウィリーで、ミッキーマウスの原型をつくりあげます。

日本では、1935年に、田河水泡氏が、「のらくろ」を生み出しますが、
漫画の中で、日本の「のらくろ」だけが、人間と一緒に登場します。

ミッキーマウスにしても、ピーターラビットにしても、そこには人間と一緒に画面上で同じ世界で介在することはありません。
ウォルトディスニーの昔の映画では、ミッキーマウスが登場する映画では、ミニーやドナルドダックが登場し、
ポパイには、オリーブやブルーとが登場し、動物が一緒に出現することはなく、たまに、登場してきても人間と対等に言葉を話したり、人間と同格の人格を与えた動物はいません。

人間はあくまで他の動物より優れているという根柢の概念では、スーパーマンやスパイダーマンのように、人間が超人的になります。

東洋思想では、孫悟空や沙悟浄や、猪八戒が三蔵法師と一緒に旅をしたり、桃太郎のように、雉も猿も犬も人間と同様に言葉をじゃべり、活躍します。

生きとし生けるもの、また、人間は発明したロボットまでも、人間と対等であり、人間と同じように感情移入できる、この日本人や、東洋人の感性が、ロボットは人間を助け同じ仲間として、鉄人28号を生み出し、鉄腕アトムと生み、さらに、ドラえもんやピカチューとなって漫画やキャラクターが生み出されました。
そして、その全世界感のとらえ方が、言葉の少ない漫画から、
強制でなく、感性に富んだ子供達から、日本人の自然観、感性が認知され、世界的に広がってきました。

スティーブン・スピルバーグ監督の「AI」という映画 人間を有機体と位置づけ、ロボットを人間とは対岸にある機械と位置づけ、相反するものとして捉えている世界観とは完全に違う世界です。

動物では、ドラゴンボールに登場した孫悟空、アニメキャラとしての、キティちゃん、この大きな流れは、見逃すことができません。

「おかえりなさい。ご主人様!」
萌え語とともに、漫画の感性を受け継いだ世界の人々が、これからは世界で、新たな漫画が発信されてくる予兆を感じます。

国際コンクールに出る人は、突出しています。2010/09/20 19:24

9月19日、銀座の山野楽器に、いつものように楽譜を探しに行ったら、
イベントスペースで、入場無料のピアノコンサートがありました。
事前予約制だったのですが、なんとか頼みこんだら、入場整理券をもらうことができ、入場することができました。
渡辺友理ピアノミニコンサートを命名された、このコンサートは、
2010年第16回ショパン国際ピアノコンクール出場記念とかでした。

曲目は、ミニコンサートという名前とは反して、マズルカの4曲を含んで、全10曲を演奏するといる本格的コンサートでした。

彼女の名前は無名でしたので、どのような演奏をするかとは期待はしておらず、連休の谷間の休日の午後を、最近、お金も時間も無く、コンサートに足を運んだことがなかったので、気晴らしになればと思って参加しました。

ノクターン作品55-2 変ホ長調の出だしの一音を聞いただけで、これはすごい演奏家だと感じ、圧倒されました。

ショパン国際ピアノコンクールの予選の課題曲が、上記の曲を含み、以下、練習曲作品25-5 ホ短調 練習曲作品25-11 イ短調「木枯らし」、スケルツォ第3番作品39 嬰ハ短調の4曲とかで、
一挙にこの4曲を弾いた後で、彼女のトークが始まりました。

今回のコンサートは、国際コンクールに出場が決まり、人前で演奏することが少ないので、また、出だしでものすごく緊張するタイプなので、場慣れするために、あえて楽器店にお願いして、この会を開催したと話したおりました。

音楽を趣味にしていますので、今まで数多くのコンサートに出席したことがありましたが、このように、国際コンクールに出場間際での、演奏会を経験したことがありませんでした。

ショパン国際ピアノコンクールは、今年は、世界中で400人弱の応募の中から、80人の予選を通過した人の一人でしたが、、
オリンピックと同じで、世界で選ばれた人は、並みの実力ではないと感じ、本当に感動いたしました。

今まで聞いたピアノ演奏家の中では、突出した技量、音量、音色の豊かさ、表現力、まさに、これからプロとして羽ばたく前の一番、研ぎ澄まされた、若々しい演奏に触れることができました。

上原彩子さんが、2002年6月、モスクワで行われた「第12回チャイコフスキー国際コンクール」ピアノ部門において、女性として史上初めての第1位を獲得して、その演奏をテレビでみて、感動しましたが、
それ以上に、生で、このような演奏に触れることができたことは、幸いでした。

岐路につく道すがら、かみさんと衝撃的コンサートに入場できた余韻で、これからの演奏についてや、プロの実力差についてなど、いろいろと話が尽きることがありませんでした。

あと10日ほどで、ワルシャワで、コンクールが開催されるとのこと、トークで話された通り、珍しく緊張されるタイプの人ですので、落ち着いて、入賞以上の成績を勝ち得ることを、第2に上原彩子さんの出現となるように、願っております。

淡彩の世界2010/09/25 18:31


上記の絵は、昔、安野光雅さんのスケッチを模写したものです。

漫画の模写のことを記載して、漫画を通して、日本文化のことを概括して見ましたが、漫画の影響もさることながら、
絵の中では、水彩絵の具で描いた淡彩画が好きです。

油絵のギトギトした感じも時にはいいものですが、何といっても、はかなく可憐な感じを抱く淡彩の世界にひかれます。

他人に、自分の考え方を伝えるには、文章、音楽、絵、スポーツなどいろいろな手段がありますが、伝達できるツールと表現の幅があればある程、その人にとっての武器になりますし、相手も理解してもらえるものです。

常日頃、スケッチするという行為をしていますが、
絵の作風で、影響を受けた人は何人かおりますが、その筆頭にあげるとすれば、安野光雅さんです。

安野光雅さんは、1926年に島根県の津和野に生まれた、画家で独特の感性で表現する世界観に魅了されています。

Wikipediaでは、原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く画家として紹介されています。

私は、彼の描く、最初中世の世界を扱った、旅の絵本に魅了され、その後ヨーロッパの一連の風景を描いた画風に、影響されました。

画風がちょうど、水墨画、日本画に通ずるものがあり、スケッチ的な速さで、温かい目で世界をとらえる作風が秀逸です。